御聖体と聖母の使徒トップページへ    聖人の歩んだ道のページへ     不思議のメダイのページへ    聖ヨゼフのロザリオのページへ


聖ルドヴィコ王(ルイ9世)証聖者  St. Ludovicus Rex C. 記念日 8月 25日

 

 13世紀は世道人心が頽廃して信仰道徳が危機に瀕する一方、主の御摂理によりアッシジの聖フランシスコ、聖ドミニコ、聖女クララ等偉大な聖人聖女が輩出し、人々に正しき道を示された時代であった。殊に聖フランシスコの創立にかかる三修道会は、会員の立派な模範によって世人の士気を振粛する上に最も力あり、その感化は欧州各国に隠れもなく、九重の雲深い帝王達の宮殿にまでも及んだのである。後にフランシスコ第三会の保護者と仰がれるに至ったフランスの聖王ルドヴィコも、アッシジの師父の清貧と使徒的情熱に感激し、鋭意そのあとに倣うべく努力された結果、ついにあの大を成されたのである。
 この身分高き聖者は1215年4月25日フランス、ポアシイの宮中にルドヴィコ8世王の王子として誕生された。彼が後年聖人となった最初の原因は恐らく信仰深きブランカを母として恵まれた幸福であったろう。実際この王妃は天成の美人で、また勝れた叡智の所有者であったが、それ以上信仰に厚く聖徳に秀で、我が子ルドヴィコにもその幼年の頃から敬虔の道を教え、常々「私はお前に対して世の母親に劣らぬ愛情をもっているつもりだけど、お前が一度でも天主に背いて大罪を犯す位なら、お前の死ぬのを見る方がよい」と言い聞かせ、汚れない少年の心に罪の恐ろしさを十分に刻み込んだ。そして勿論ルドヴィコは母のこの教訓を生涯片時も忘れはしなかったのである。
 とはいえブランカは彼に宗教教育のみを施して足れりとした訳ではない。知育体育、文武の道も決してゆるがせにはしなかった。しかも多才のルドヴィコは往くとして可ならざるなく、殊にラテン語にすぐれこの難しい言を自由に操ったばかりか、聖アウグスチヌスや聖ヒエロニモ等古代教父の難解の著書を毎日日課として少しずつ翻読し、以て神学的知識を深め、天主への愛を増す便りとしたという。
 彼が11歳の時父王ルドヴィコ8世が崩ずるや、暫く王妃ブランカが政事をとり、その賢明と聖徳によって国家を数多の難境から救ったが、王子ルドヴィコがプロヴァンス公の長女マルガレタ姫と結婚するに及んで之に王位を継承せしめた。爾来ルドヴィコは旧約時代の賢王ソロモンが主に長寿、富裕,戦勝等を求めず、唯国に善政を布く為の叡智を求めたひそみに倣い、己の弱さと王位にある身の重責を思いみて、一の勅令を出すにも、聖霊のわが叡智を照らし給うよう祈らぬことはなかった。されば彼の御代はフランス史上空前絶後と思われるまでによく治まり、人民こぞって泰平を楽しみ王の徳を謳歌したのである。
 最初臣下の中には王の若年を侮った者もあった。しかし彼等もやがては凛然たる王の威光に縮み上がらねばならなかった。王は貧民や不幸な人々に対し溢れるような同情を有し、彼等に圧迫を加え不正を行う者は高官といえども寸毫も仮借するところなくこれを罰した。また高利貸し、虚飾及び決闘を社会の癌として排斥厳禁し、実践糾合人民に範を垂れて完徳の生活を奨めた。
 祈りは一般に信仰のバロメーターとも言えようが、ルドヴィコの祈祷を好むことは尋常一様ではなかった。そして毎日二つあるいは三つのミサ聖祭を拝聴し、聴罪司祭と共に聖務日祷を誦え、今ほど頻繁な御聖体拝領が許されていなかった当時においては異例とも言うべき二ヶ月に一度、聖きパンを受けることを怠らなかった。しかもその拝領台に赴くや、主の御前に歩行するを畏れ多しとして膝行し、その天のマンナを戴く時には敬神の情自ら面に現れてさながら天使の如くであったという。
 かつて臣下のある者が王の信心に凝って余りに多くの時間を費やすことを難じた所、ルドヴィコは答えて「もし余が御ミサでなく狩猟その他の遊びに熱中したとするならば、今に数倍する時間を徒費してもその方達は何事をも申すまい、それが事一度宗教に関するとなるとたちまち非難の語気をもたらすとは誠におかしい話ではないか」と言われたとのことである。
 かように敬虔篤信なルドヴィコであったから、その心は自ずと表に現れて、麗しい数々の美徳とならずにはいなかった。中でも王者に似げぬ節倹質素な生活振りと、貧民病者に対する仁慈の程とは、人々を感嘆せしむるに十分であったが、これは言うまでもなく、彼が聖フランシスコの第三会に入会した、その輝かしい結果であったに相違ない。また彼は聖職者を深く尊び、枢密顧問もしばしばその中から選び、わけてもフランシスコ会の修士には特別の信頼と尊敬とを寄せていた。
 今ルドヴィコ王博愛の実例を二、三挙げてみれば、彼は毎日120人の貧者に食を施し、四旬節中は更に多数の人に恵み、自ら手を下して憐れな癩病者の体を洗い清め、之に接吻することさえ厭わなかった。なおその仁愛は自国民ならず、遠くサラセン人の奴隷となって働いているキリスト教徒にまで及び、常に彼等に深甚な同情を現し、之が解放に援助を与えた。
 東ローマ皇帝バルヅイン二世はルドヴィコの聖徳に感じ、わが首府コンスタンチノープルに国宝として保存されていた、救い主イエズス・キリストの聖血に染まった茨の冠を贈ることとした。それを聞くやルドヴィコは歓喜に堪えず、幾千の信徒を従え、裸足でパリから二三里も出迎え、自らその聖き遺物を捧持し行列して、あらかじめそれを安置すべく建てた美麗な小聖堂に運んだ。
 その後王は大病に罹って奇跡的に全快した感謝の印として、その頃サラセン人の手に落ちていた聖地エルサレム奪還の十字軍を起こし、1248年大軍を率いて出征した。最初は向かうところ敵なく連戦連勝の有り様であったが、やがて不幸にも疫病によって多くの将士を失い、為に一軍の士気も著しく沮喪してサラセンの軍勢に大敗を蒙り、王自身も捕虜となる憂き目を見るに至った。
 彼は暫くの間要求された巨額の賠償金の都合がつかなかった為に、生命を奪われる危険に直面していたが、有難い天主の御摂理により辛くもそれを支払い得て漸う自由の身体となることが出来た。それから彼は残れる将兵を駆り集め、パレスチナのアッコンへ行き、次いで己一人主の聖蹟の此処彼処を巡礼した。その中に母ブランカ薨去の悲報に接したので、ルドヴィコは蒼惶として帰国の途についたが、久しぶりで帰って見ると官吏の綱紀は甚だ弛緩し、税を貪って私腹を肥やしたり人民を瞞着して利益を求めたりする者もあったから、彼はすぐさま粛正に乗り出し、奸吏を厳罰に処する一方、人民の受けた損害を自分が出費して償ってやった。そして十字軍出征戦没将士遺族の弔問救護に万全の策を講じ、また聖職者を多数養成し学術を盛んならしめる為今も名高いソルボンヌ大学をパリに創立した。
 ルドヴィコ王は先の十字軍失敗に遺憾やる方なく、1267年パリに臣下一同を呼び集め、之に主の聖遺物、かの茨の冠を示して声涙共に下る大熱弁をふるい、その賛同を得て再挙を図ることとなった。かくて彼はまたも大軍を親率して今度はアフリカのチェニスに上陸した所、たちまち疫病に冒されて臥床すること僅かに六日、念願としていた地上の聖地に入る前に、思いもかけず天の都、永遠のエルサレムに凱旋するに至った。その臨終に、彼は両手を十字架に磔れる者の如く広げ「主よ、我は聖堂に入り、主の聖殿に於いて礼拝し、主の聖名を讃美し奉る」と息も絶え絶えに詩編の言葉を祈った後、何の苦しみもなく静かに瞑目したという。その二三ヶ月前、彼はサラセンの使者に「余は貴国の皇帝陛下に受洗の恵みを与えることが出来るとあれば、奴隷となって鉄鎖に繋がれる事敢えて厭う所ではない」と語ったそうであるが、今それよりも更に大なる生命の犠牲をさえ献げたのである。生前既に聖人の噂高かった王の訃報が一度故国に伝わるや。人民その徳を追慕していずれも慈父を失った如く涙せぬはなかった。その後彼の取り次ぎによって奇蹟の行われること数知れず、公然聖位を贈られ、今なお無二の聖王の名誉を世に謳われている。

教訓

 我等は聖ルドヴィコ王の生涯により一つの事実を確かめることが出来る。それは身分境遇の如何に拘わらず、誠意さえあれば天主の十戒や福音の聖教は必ず守り得るということである。されば我等は聖ルドヴィコの如く天主の御旨に従う堅い決心を起こし、その賜う聖寵を活用するに努めるならば、また王の如く天のエルサレムに入城を許されるに相違ない。